スクールカーストの最下層で生きた我輩の辞書に、”青春”という言葉はない。
わたしはクズ… いや、間違えた、
我輩には友も恋人も無い。それ故に、語るべき青春も思ひ出も無い。我輩にあるものは、何層にも堆積し続けたクズの歴史しか無い。どこで幸せになれるかとんと見当もつか無い。そんな我輩にも人に興味を持ってもらいたい。
ここでひとつ、我輩の経歴を供覧しようと思う。
キョロ充 として生きるということ
高校2年生になる直前に、全日制高等学校を中退した。その主たる理由は、キョロ充の模範囚の如く孤独を恐れ、懇意を望んでいなかった人々と連む日々にヒドく辟易したからである。
例えば、比周する顔見知り様の話題に随従するべく、E◯ILEという半グレ歌手の歌声を聞かねばならぬ日々は辛かった。
又、B◯MPというバンドを好んでいたが、校内ではR◯Dが幅をきかせていた故に、致し方なく、「君が好き過ぎて君の細胞の1つになりたい」といった様な気持ち悪い歌詞を鼓膜に響かせねばならなかった。
積極的に自己を他者に開示する努力を重ねていれば、彼らとはもう少し良い関係になれたやも知れない。が、まことに残念なことに、我輩は、自己開示を一切せずに他者同化に走った。
キョロ充と真性ぼっち
己を殺戮して空気を拝読せねばならぬ生活にはほとほとウンザリしていたが、キョロ充の遊離はもはや不可能であった。
というのも、キョロ充から抜け出た先は、真性なるぼっちである。
我輩の教室には真性なるぼっちが存在していた。その真性なるぼっちとは、無口な男女二名のことである。
昼食時、その二人の生徒はそれぞれ、教室のド真ん中において、静黙を維持したまま一人食べ物を口に運んでいた。
周りの男子生徒たちは、教室の廊下側において、大小様々なるカーストで構成された集団をつくり、思い思いに飯を食らっていた。
一方女子生徒たちは、窓側においてたった一つだけの大集団を結成していた。すなわち、ぼっちの女子生徒以外、全員の女子がこの集団に属していたことになる。
廊下側の男子集団と窓際の女子集団が円をつくって、ひとりで飯を食べる男女を囲っていたってわけだ。
あたかもその構図は、日の丸の円を彷彿させた。あの円は、きっと日本人の性質をうまく表している。孤独よりも、誰かといること——それが何より大事なのだと、言い合い、言い聞かせる。
我輩は彼らのようにしたたかに振る舞えなかった自分を反省している。
彼らは独りで食事せねばならぬ状況を堂々と受け止め、孤独なる学園生活を果敢に生きていた。
困難に背を向けると殺される
我輩は孤独を恐れたがために、己を殺害し、周囲の雰囲気に同化した。が、人生は皮肉である、個性を他性に変貌したとて、人間は孤独からは逃げられない。
我輩は孤独に背を向け、中退を決意したのである。
クマから逃げる時、背中を見せて逃げてはいけないと聞いた。背中を見せると、クマが本能で追いかけてくるそうだ。
孤独の辛さを和らげる為の最良なる方法は、彼らの様に背を向けず、確と孤独と対峙することやも知れない。
その後、ぼっち二人組はどうなったかはつゆ知らない。
ただ、多感なる時期において、孤独かつ苦吟なる日々を力強く生きた彼らはきっと、未来に待ち受けているどんな困難をも打破できるだろう。
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