人生を生きる意味

田舎と線路

クズ猫

人生イロイロあるけども、結局は…

死にたいと思ったところで呼吸は決して止まることがない。無意識は、生きるために拍動するよう臓器に命令を下しているのだ。我々は、常に生きねばならぬ責務を身体に負いているが、それは何も辛い事ばかりを経験させるためではない。我々は、生きてよかったと確かめることができるその日まで、本能的に生き続ける生き物なのである。‬

我々が食事をし、勉強をし、懸命に働くのは、何も呼吸をするためではない。

我々が生活を営む本来の目的は、考えるだけでワクワクするような人物や出来事、うつくしい風景やかけがえのない愛情に出逢って、しかと生きていることを確かめることにある。

淡い空と道


俗物根性に惑わされない


我々は優越感を抱いたり、劣等に悲しんだりしてエネルギーを多大の消費すること限りがない。だが、死ぬ間際のことを考えなければならん。自分の容姿が優れているだとか、自分の年収が高いからなんというのは、死に際に脳裏に一瞬もよぎらすことはない。

死が眼前にあるとき我々の脳裏によぎるもの、それは、大切な人に出会えたかどうか、楽しかった思い出を手に入れたかどうか、そして生きて良かったと確信できるかどうかなのである。

秋と道


大切な人、あなたにいますか?


実は我輩には、大切な人や楽しい思い出という宝物を、他人より多く持ち合わせていない。我輩の目標は、まず、大切な人と楽しい思い出を手に入れること。子供じみた目標である。しかし、普遍的価値がある奥深い目標である。

謙虚犬とクズ猫

自動販売機の前でジュースを選ぶ時間は無駄という話

人間は悩むことが幾千も存在す

それはなにも、今後の人生に深く影響を与える悩みだけではない。120円を投入した自動販売機を眼前に、コカ・コーラのボタンを押すべきか、オランジーナのボタンを押すべきか、といったような、小なるお悩みに我々は多くのエネルギーを費やしている。

我々は、色々な選択肢において、無意識にどちらが正しいか、どちらが能率的かを考える。その小さな思考を毎日繰り返していると、莫大なエネルギーを使用していることに気付くのだ。

例えば、ある暑い日において、炭酸好きなAさんたるは、自動販売機を前にどの缶ジュースを飲もうか迷っている。彼はその後、牛丼屋の券売機を前にして並盛りにするべきか大盛りにするべきかを考えている。Aさんは、このような調子でさまざまな局面において、どっち選んでも今後の人生になんら影響がないであろう小さなことに、それなりのエネルギーを利用して思考を展開している。

些細なことやもしれぬが、エネルギーの無駄遣いも、塵も積もればなんとやらである。

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大幅にサイトの外観を変えようと悪戦苦闘しているのだが

クズ猫

勉強すること、日々山の如し

毎晩、深夜に帰宅し、さあサイトを編集するぞと勇猛にパソコンを開く。眠気の襲来と翌日の責務の重圧感にエネルギーを消費しつつも、耐えてサイトを編集したり、クズの広告の記事を書いているのだ。

その際に、特には腹立たしいものは、コードを打ち込んでも思い通りに反映できないことだ。パソコンをバットでたたき割りたくなる。さっさと反映させて、我輩を寝かせてくれと言わんばかりに一人で激憤する。そこで我輩は常日頃から思う。

高度なプログラミングは覚えなくてもいいから、最低限のwebの知識は覚えておかねばなと。何事も勉強が大事であるということだ。

ベンチャー企業に勤めて、我輩は初めて表計算ソフトに触れた。その際に、正社員を経験してきた同僚や先輩は当たり前のように関数を使って、美しき表を作り上げていた。我輩はエクセルもスプレッドシートも触ったことがなかったため、表計算の利便性には度肝を抜かされた。

我輩は、ネットで逐一調べながら必死に関数を覚えて、仕事で表を作ったり、又プライベートでも自分の勉強量を記録するために表計算を使うようにした。

世界が、うんと広くなった。

我輩は若年のゆえか、知らぬことが多すぎている。しかし、我輩はそれで充分であると思っている。それは、知識がないことに満足しておるのではなく、知識が無いとはっきり理解できていることに、充分なのだと言いたいのだ。

我輩はいま、将来のために、もっというと、いつかはだれかのために、読者に内緒でいろんなことを学習・勉強している。我輩は常に進歩しているのである。